『泥より出でて、泥に染まらず』

「フーロン、見て」 

 夕立の狭間の、良く晴れたある日の夕方。ガルは庭を掃く手を止めて、中庭にある小さな池の中を指さした。 

「なぁに?」 

 縁側に腰かけていたフーロンは池の側に駆け寄ると、「魚?」と呟いた。池の中では、黒い魚が一匹と、緋色と白の斑模様を身に纏った魚が二匹、悠々と泳いでいる。 

「うん。そっくり」 

「そっくり?」 

 フーロンは「何に?」と首を傾げている。 

「ん」 

 ガルはにっこりと笑いながら、先程、池を指した人差し指で、今度はフーロンを指さした。 

「えぇ? あたいにかい?」 

 フーロンが「やだぁ」と声を上げる。 

「あたい、魚に似てるのかい?」 

 ガルは大きめに頷いてから、「でも」とつけ加えた。 

「一番似てるのは、店の中の、硝子の鉢にいる小さいやつ」 

「どっちにしろ魚じゃないか!」 

 口を尖らせる彼女を見て、ガルは「ひひっ」と笑い声を漏らした。 

「……上着」 

「上着?」 

「うん。その上着を着て歩いてると、似てる」 

 そこまで聞いて、フーロンはようやく「あぁ、なるほどね」と、納得した様子を見せた。彼女が上着の裾を指でつまんで、それをひらりと翻すと、その緋色は、やはりあの鉢の中を漂う小魚を思わせた。 

「ね、似てる」 

「服が似てる、ってことね。良かった、顔が似てるわけじゃなくて」 

 そう言うと、フーロンは不意に尖らせた口を横に伸ばして、にやりと笑みを浮かべた。 

「ガルも似てる」 

「え、何に?」 

「妹」 

「妹?」 

「そ。あたいの妹」 

 ガルが「あの、髪飾りの?」と尋ねると、フーロンは「ううん」と首を振った。 

「妹分じゃなくて、本当の妹。ほら、覚えてないかい? あたい、あそこの窓から初めてガルを見た時に、女の子と見間違えただろう?」 

 フーロンが建物の上の階を見上げるのに合わせて、ガルも同じ場所を見上げた。 

 あの日のことはよく覚えている。 

 あの日も今日と同じように、こうして、夕日に照らされる窓辺を見上げていた。 

「実はあの時さ、ガルのこと、妹に似てるなぁって思ったんだ。それで女の子だと勘違いしたんだよ」 

「ふぅん……」 

 会ったことのない「妹」に似ていると言われても、ガルにはいまいちピンとこなかった。 上を向いたまま首を傾げるガルに、フーロンは「ふふ、そんなこと、いきなり言われても困るよねぇ」と、小さく笑った。ガルがフーロンの方へ視線を戻すと、彼女は言った。 

「全然会ってないんだよねぇ……あたい、四つより大きくなったあの子を知らないんだ。生きてたら、歳は九つ」 

「生きてたら、って」 

 そんな大げさな、とガルは思ったが、その言葉の裏に隠れていたものは、すぐに明らかとなった。

「うち、貧乏だったからね。病気になっても、医者に診てもらうお金さえなかった。元気なら良いんだけど……」 

「……そっか」 

 確かに、そのような状況ならば、「妹」が今も生きているかどうか、怪しいものがある。 

「あたい」 

「?」 

 ふとフーロンの目元を見ると、そこにいつもの笑みはなかった。ただ、どこか遠くを見据えた瞳が、綺麗に夕日の色を映し出しているだけだった。 

「売られたんだ。親が、あたいを売った……」 

「そうだったんだ」 

 考えてみれば、あり得ない話ではない。自分とは違うきっかけでこの店に来る者もいるのだ。 

「売られる時に、妹に言ったんだ……『いつか一緒に暮らそう』って。あの子ちっちゃかったから、覚えてるか分かんないけど」 

「ふぅん……」 

 ガルはぼんやりと相槌を打った。 

 フーロンに「いつか一緒に暮らそう」と言ってもらえる「妹」が、少し羨ましかった。 

 自分には、そう言ってくれる存在がいない。 

 フーロンは空を見上げたまま、「うちの親、適当だからなぁ……あの子、つらい思いしてないかなぁ」と呟いている。 

「……あの」 

「何?」 

 ガルが声をかけると、フーロンはくりっとした目をこちらに向けた。 

「それって、いつかあんたがこの店から出ていくってことなの?」 

 もし、そうだったら。 

 考えるだけで、底の見えない暗闇に落ちるようだった。 

「そう、お金貯めてね……無理かな」 

 フーロンの目が哀しそうに歪む。 

「姉さん方はみんな『そんなの無理だ』って言うんだ。ガルもそう思うかい?」 

「……さぁ」  

 ガルは小さく首を傾げた。彼女の目を見たら、「無理だ」とは言えなかった。 

「姉さん方も酷いよねぇ。そりゃあ、あたいの手取りなんて大したことないんだけどさぁ……夢見るくらい良いと思わないかい?」 

「うん……良いと思う」 

「そうだよねぇ」 

 フーロンは、ほっとしたような笑顔を見せた。それとは対照的に、ガルの胸の内は、靄のような何かがさわさわと騒めきだしていた。 

「……ガル?」 

 フーロンは実に察しが良い。すぐにガルの様子に気づき、そっと顔を覗き込んできた。 

「どうしたんだい?」 

 彼女の問いかけに、ガルは口を固くつぐみ、ふるふると首を横に振った。 

「何でもない」 

 俯いてそう答えるのが精一杯だった。 

「嘘」 

「いっ」 

 思わず声が漏れてしまった。 

 びたんっ、と音を立ててガルの頬を挟んだフーロンの手のひらが、俯いた顔をぐいと押し上げる。 

「話してごらんよ。あたい、怒らないから」 

 彼女の優しい眼差しを、ガルは正面から受け止めることができなかった。頬を挟まれ上を向かされたたまま、どうにかして視線を逸らす。 

「ね……話しな?」 

 包み込むような声が降り注ぐ。 

「……おれは」 

「?」 

「家族、いないから」 

 自分の感情を言葉に変えて伝えるのは、まだ幼いガルには難しいことだった。これ以上の言葉でどう説明したら良いのか分からず、ガルは目を逸らしたまま再び口をつぐみ、フーロンの言葉を待った。 

「……そっか」 



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