『夕立』

   七月二十一日 日曜日 


「扉が閉まります。閉まる扉にご注意ください」 

 女性の声がして、特急列車の扉が閉まる。 

 窓際の席、隣には誰も来ない。どこか途中の駅で乗ってくるのだろうか。 

「……」 

 ミホはぼんやりと、動きだした窓の外を眺めた。佇む都会のビル群が、静かにこちらを見送っている。 

――ほんとに行くの?―― 

 一昨日の、終業式のあとでのことだった。こちらの夏休みの予定を知っていた友人が、そう尋ねた。 

――うん、来年は忙しいと思うから―― 

――今年だって、夏休み中にオープンキャンパスに行けって、先生、言ってたじゃん―― 

――うん……まぁ、それは最悪、夏休みが終わってからでも……秋になれば学祭もあるし――

 そう言うと、友人は「そう?」と相槌を打って、納得したような、していないような顔をした。

――一緒に遊ぶのは厳しいかな。でも、メールや電話はできるから――

 友人にはそう伝えたが、手に持ったままのスマートフォンは、今朝幾度か震えただけで、今は大人しい。少し寂しい気もするが、あまりしつこく主張されても困る。 

(これくらいでちょうどいいか)

 ミホは思った。 

 二〇一三年、高校二年、十七歳の夏。ミホは少しだけ、現実から遠ざかることを決めた。 

 息切れするような疲れを感じていた。 

 昨年の春、付属中から内部進学をして、高校生になった。そして気づけば、卒業後の進路の話に触れる機会が、明らかに増えていた。 

 進学校であるせいか、学校の指導は四年制大学への進学を前提としたものだった。生徒の方も、おそらくほとんどがその指導に沿った進路を希望している。ミホも右に倣えと、定期的に配られる進路希望調査票には、毎度、「四年制大学進学」の欄にマルをつけるようにしていた。 

 本当は、何も決まっていないのに。 

 中学受験の時は、ほぼ、親と塾が受験する学校を決めたので、ミホ自身はほとんど悩まなかった。しかし今回は違う。これまでずっと「こうするべきだ」と自分を導いてきた大人たちが、手のひらを返したかのように、「お前は何をしたいのか」と問うてくる。 

(分かるわけないじゃん)

 自分の意志など、とうの昔に捨ててきた。そうして空洞になった身体に、大人たちの期待を詰め込んで生きてきた。おそらくこの世の中では、相手の思惑にそぐわない自分の意志を口にするのは「悪いこと」で、相手の思惑を読み取ってそれに従うのが「良いこと」なのである。故に、自分の意志というものは持たない方が、楽に生きられる。子どもながらにそう解釈してやりくりをしてきた。 

 それを今になって、「何をしたいのか」と自分の意志を問われても、分かるわけがない。大人たちの身勝手さに苛立ちすら覚える。 想像がつかなかった。高校を卒業したあとの自分の姿が。仮に学校の指導通りに大学生になったとして、何の勉強をするのだろうか。 

(ていうか、大学に行くだけが進路じゃないでしょ)

 誰にも言わないようにしているだけで、実は、就職という進路も視野に入っている。ただ、四年制大学進学という校内の王道を逸れ独り違う道を進んでゆくのは、どこか怖いように感じた。 

(何をしたいのか……) 

 口の中で呟いてみるが、特に思いつかない。与えられるものを享受できれば、それで良いのに。いっそのこと親でも教師でも構わないから強制的に進路を決めてくれ、などと考えることもあるが、その度に「それは違うだろう」と、胸の奥から微かな叫びが聞こえる気がして、その案は却下される。

 そうしてこの脳内会議はいつも、暗礁に乗り上げるのだ。 

――お前は何をしたいのか―― 

 問うてくる人、皆に言いたい。 

 問う前に、それを見つける時間をくれ、と。 

 時間は素知らぬ顔で過ぎてゆく。その流れは、今のミホには少し速すぎた。 

 戸惑いつつも、ある時、気づいた。時間が貰えないのなら、自力で得るしかない、と。 

 まとまった時間が必要だと思った。しかし、学校を長期で休むのは気が引けた。無難に時間を手に入れられるのは、夏休みくらいしかない。そう考えたミホは、両親と、これから世話になる親戚を説得した末に、この夏休みに「時間」を得たのだった。 



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